本当に興味津々です。
以外に知らない川柳の歴史を調べてみました。
初代川柳没後は、前句附興行から選句集「柳多留」への二重選考システムが失われ、次第に句会としての形式を強め、選者もベテラン作者が任意に行なうようになり、「柳多留」も句会発表誌の役割になりさがった。 しかし、四世川柳の命名した「俳風狂句」時代は、文化文政期の江戸町人文化を背景に盛んとなり、四世川柳の門人には、九州・平戸6万3千石の大名・松浦静山(柳号・松山、流水、柳水)や葛飾北斎(柳号・卍)、都々逸の創始者・都々一坊扇歌、「偽紫田舎源氏」の作者・柳亭種彦(柳号・木卯)など、当時一流の文化人が名を連ねていて、作品も狂句と命名されていても、内容的にはとても面白いものがある。さらに天保狂句期には、その隆盛を極めた。
しかし、天保の改革に前後して、四世川柳は、公職の障りになるとして川柳号を辞めさせられ、佃島の魚問屋・腥斎佃(水谷金蔵)に五世川柳を譲り、自らは「柳翁」となった。天保の改革の風俗取締りは、当然、末番句を有する狂句界にも及び、取締りが厳しくなった。五世川柳は、狂句の存続を、内容的変化に求め、「柳風式法」や「句案十体」という狂句界の規範を作り、内容も忠孝、仁義、報恩などの教化を主とするものにしてしまった。これが、自由な表現を旨としていた川柳に規範という重い指針となり、これを金科玉条とした以後の柳風狂句会の作者により、表面的な言葉遊びに堕落させてしまう原因となった。これは、五世川柳が悪いというのではなく、時代の風波に晒された川柳風を守る行為であり、いたしかたない選択であったろう。問題は、文明開化以後も、時代の風潮に変わらなかった明治柳風狂句の指導者たちの指導力のなさである。これは、柳風会内だけの言葉遊び、皮相的な作風に陥いった。
引用:『ウィキペディア(Wikipedia)』
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